「私的大河ドラマ論『麒麟がくる』によせて」~その五~(麒麟とともに去りぬ篇)
2021年02月10日
先日、大河「麒麟がくる」が無事フィナーレを迎えました。
放送開始直前の、前・帰蝶さまのスキャンダルによる怒涛の降板劇。更には、感染拡大からのドラマ撮影の途中寸断。また再開後の、密を避けての撮影による足かせ。
それもこれも何とか乗り越え、遂にクライマックス「本能寺の変」へと辿り着きました。
地元ゆかりの武将が主人公であったことで、こんな非常時下にあっても、一定程度の経済効果をもたらしてくれたものと信じています。
しかし、NHKサンの制作発表のあった3年前(‘18年)よりすこぶる期待していただけに、その展開には残念感もキョーレツにあります。
今ここに列記することで、その無念さを封じ込めたいと考えます。
イ)不明な前半生に、いたずらに話数をかけすぎた。
ロ)織田家重臣の面々のキャラが、全く立っていない。
ハ)不要な人物が多い。
ニ)逆に登場が必要だと思われる人物が出てこない。
ホ)終末に向かい、周囲が信長を危険視する言葉だけはみられるが、直接それを窺わせるシーンに説特力がない。
従って、最大のクライマックス「本能寺の変」の要因が単純過ぎる。
それでも、三英傑の陰でずーっとバイプレーヤーに甘んじてきた十兵衛さまに脚光があたり、その人物、功績が再認識されたことは、いささか感無量であります。
ありがとう‼ 今はドラマ制作に関わった全ての人たち。そしてゆかりのある各地域で催されたイベントを実施、またその見学に訪れた方々にまで、心より感謝するものです。
あっ、もうひとつ注文を思い出しました。十兵衛さまの髪型は、やっぱりきちんとした中ぞりのマゲ姿がよかった。あの総髪はいただけぬ。